2016年2月22日月曜日

フットサル日本代表、まさかのワールドカップ出場逃す。。。

2016年2月18日、「今日は日本フットサル界にとって悲しい1日となりました」。

テレビの中から、元日本代表現シュライカー大阪の木暮監督が放った言葉、あまりに重過ぎて、僕はテレビの前で放心状態になった。
後半の時間が刻一刻と過ぎ、追加点が奪えない。反対にパワープレー返しを受けて、0−3に差が広がった。まだ間に合う、早く1点ずつ返せば大丈夫だ。そう、4年前のポルトガル戦もそうだったじゃないか。日本のパワープレーは絶対的な自信があるんだから。と心の中で何度も叫んだ。祈った。でも、キルギスの前線からのプレスを受けて日本のボール回しのスピードは上がらず、決定機を作れない。時間ばかりが過ぎ、気がつくと残り5分、3分、1分、、、 既に絶望的な時間帯に。奇跡を信じてシュートを打ち続ける選手を呆然と見続ける。そして、最後のホイッスルが吹かれ、日本の4年間が終わった。ミゲル監督との7年間が終わった。

なぜ負けてしまったのか。選手達もこれと言った言葉が出てこない。何か大きなミスをした訳ではないし、大きな戦術ミスがあった訳でもない。増して、ベトナムにしろキルギスにしろ、実力で負けている相手でもない。では、なぜ、、、

ベトナムの敗戦は、どうしても勝ちたい、負けて元々と言ったベトナムの捨て身にも近い思い切ったプレーが日本を圧倒したのが原因であろう。たとえ、2点差をつけられても、自身を持ってパワープレーを続けたからこそ、2度も同点に追いつけたのだろう。この1戦に関しては、どんな獲物であっても、全力で闘いに行くライオンの気持ちにならなければなかっただろう。絶対に勝てる試合などひとつもない、ということを思い知らされた。

僕がショックを受けたのは、ベトナム戦よりもキルギス戦だ。なぜなら、絶対的に自身を持っていたパワープレーが通用しなかったからだ。しかも、その相手は、世界ランクで日本の上を行く相手ではなく、アジアで中堅レベルのキルギス相手にだから、尚更ショックは大きい。

かねがね、日本のフットサルの強みは、4人が横に並びパスを細かく回して攻めあがるクワトロと、戦術統一されたパワープレーであると言われて来た。だから、キルギス戦後半でパワープレーが始まったとき、「よし!これで同点までいける」と確信をした。あの2012年11月4日のポルトガル戦の再来だと。

シュートがことごとく外れた。特にゴール前にファー詰めをした6番小曽戸選手のシュートが何度も外れたのが印象的だった。あんな簡単なシュートがなぜ決められないのだ!とネットでは言葉が見られたが、いずれのパスも、フィニッシュの直前で相手選手にわずかに当たっていて、コースが微妙に変わっていた。運もついていなかった。

しかし、それ以上に気になったのが、パワープレーの攻撃パターンが底にいる酒井選手に当ててからの展開にほぼ決めうちされていたこと。バリエーションが少なく、守っている相手としては、守り所がはっきりしていて守りやすかったのでは?サイドからの速いシュートは殆ど打たれず、相手に怖さを与えられていなかったように思える。

そして、何よりも、実践不足があったのではないかと思慮する。元々代表戦はサッカーに比べると少なく、遠征試合が数試合と、一年に数回の親善試合しか無い。遠征試合は知らないが、少なくとも先日のコロンビアとの親善試合、昨年のウクライナとの親善試合では、日本がリードしていたこともあり、パワープレーを実施するチャンスがなかった。こういった悪夢を想定して、たとえ勝っている試合でもパワープレーを試しておくべきだったのではないかと思える。

手の内を見せてしまうと、相手に対策をとられるから、本体会まで温存しておくような声が聞こえて来るが、1回こっきりの使い捨ての様な戦術なのであれば、薄い氷の上を歩く様な物。パワープレーは慎重にボールは運ばなくてはならない一方、大胆にゴールを狙う気持ちも大事だ。

そうして考えると、今大会の第2戦目、マレーシア戦の後半が、パワープレーを使う最大のチャンスだったと思える。前半に10−1でリードした日本。後半に入り、相手が引き気味の守備を敷いて、前半のようにスペースが得られなくなった。こういうときこそ、パワープレーで流れを変えるのが意味があったのではないか。大量得点差があるから、パワープレー返しも怖くない状況であったし、使わない理由はないはずだ。

予選と言えども、1試合もムダにしない考えであれば、結果は違ったのかもしれない。

次は2020年。
愛知もワールドカップ招致に立候補しているが、今回の敗戦で少し遠のいたか。
日本フットサル界の道は険しい。
険しいからこそ、みんなで乗り越える価値がある。

さあ、明日の一歩を踏み出そう。